続・風のとおり道

自己探求と不思議なこと、ヘミシンクの記録です。

神話の力より 円環

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キャンベル 比較的近年に発見されたグノーシス派の「トマスによる福音書」に重要な一節があります。「弟子のひとりがキリストにたずねた。『神の国はいつやって来るのでしょうか』」

「マルコによる福音書」のたしか第13章だったと思いますが、やがて世の終わりが来ると書いてあります。つまり、世界の終わりというイメージが、そこでは現実の物理的、歴史的な事実を予言したものとして解釈されている。

しかし、トマスによる福音書」の中でイエスは答えています。

「父の国は期待によって来るものではない。父の国はこの地上に広がっているのに、人々はそれを見ていない」。そこで、私はそういう意味であなた(モイヤーズ)を見る。すると、聖なるものの存在の輝きがあなた(モイヤーズ)を通して私に伝わってくるのです。

 

モイヤーズ 私を通して?

 

キャンベル ええ、そうですとも。イエスが、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつもわたしのうちにおり、わたしもまたいつもその人のうちにいる」と言われるとき、彼は私たちがキリストと呼んでいるあの大いなる存在、私たちすべての存在の基礎、という立場から話しておられるのです。

 

それと関わりを持って生きている人間は誰でもキリストのような存在です。自分の生活の中に神の言葉が意味することを持ち込む人は、みなイエスと並びうる人だ。そういうことです。

 

モイヤーズ 先生が「あなたは私にとって輝ける神である」と言われるのも、そういう意味なんですね。

 

キャンベル そのとおりです。たしかに。

 

モイヤーズ そして、私にとっても先生も?

 

キャンベル 私はこれを大まじめに話しているんです。

 

モイヤーズ 私もまじめに受け取っています。他人のうちにひそむ神聖さを確かに感じていますから。

 

キャンベル それだけでなく、この対話においてあなたが代表しているもの、そしてあなたが引き出そうと務めているものは、こういう精神的な原理の目覚めです。だからあなたは伝達の手段です。あなたは精神の輝きを帯びている。

 

モイヤーズ それは誰にでも言えることですか?

 

キャンベル その人生において心臓レベルにまで達した人すべてについて、同じことが言えます。

 

モイヤーズ 先生は精神に地理があると、ほんとうに信じておられるのですか?

 

キャンベル これは隠喩として聞いていただきたいのですが、ある人々は性器レベルで生きていると、ほんとうに言えると思いますよ。それだけがその人たちの人生の目的なんですから。それが人生の意味なのです。

それがフロイトの哲学じゃないでしょうか。

 

そのあと、アドラーの意志力の哲学に至る。そこでは人生のすべては障害物とその克服に集中する。それは、たしかに完全によい生活であり、神性の具現でもあります。でも、それは動物のレベルにある。

 

そのあとに別の種類の生活が待っている。なんらかの形で自分を他人に与えるいう要素を含んだ生活です。それが開かれた心によって象徴される生活です。

 

モイヤーズ そういう生活の源はなんでしょう。

 

キャンベル それは他人のなかに自己の生命があることの認識に違いありません。二人の生命は、実はひとつの生命だという認識です。神はそういうひとつの生命のイメージです。

 

そのひとつの生命はどこから生まれるのかとたずねる。すると、あらゆるものはだれかが造ったものに違いないと考える人々は、「それはもちろん神がお造りになったもの」と思うでしょう。そこで神が万物の源ということになります。

 

モイヤーズ すると宗教とはなんでしょうか?

 

キャンベル religion(宗教)という語はラテン語のreligio(結びつきを取り戻す)という原義を持っています。私たち二人の生命の中に実はひとつの生命があると言う場合、分離されていた私の生命はそのひとつの生命にリンクされる。

結びつきが回復されるわけです。

これは宗教のいろいろなイメージによって象徴されます。どのイメージも結合のリンクを持っています。

 

モイヤーズ 有名な心理学者ユングは、最も宗教的象徴は円環だと言っています。円環は人類の偉大な原初的なイメージのひとつであり、われわれは円環のシンボルについて考えるとき自己分析しているのだ、と。先生はそれについてどうお考えですか。

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キャンベル 全世界がひとつの円環です。こういう円のイメージはすべて精神を反映しています。だから、こういう建築的デザインと私たちの精神機能の実際の構造とのあいだには、多少の関連があるのかもしれません。

 

マジシャンがマジックを行うとき、彼らは自分の回りに円を描く。そして、もろもろの力はこの閉じられた円のなか、密封された領域のなかでは働くが、その円環の外に出るとむなしく消えてしまうのです。 

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モイヤーズ インディアンの首長がこう言ったというのを読んだ憶えがあります。

------「われわれがキャンプを設営するときには、全体を円形にする。ワシが巣を作るとき、その巣は円い。われわれが地平線を見るとき、地平線は円の一部だ」。

あるインディアンたちにとって、円は非常に大事なものだったようですね。

 

キャンベル そうです。でもそれは、私たちがシュメールの神話から受け継いだもののなかでも大きな役割を果たしているのです。私たちは四方位と360度と共に、円環を受け継ぎました。

 

シュメールの公式の1年間は360日であり、そのほかに勘定に入らぬ聖なる5日があります。その5日は時間外にあり、そのあいだに人々は彼らの社会を天界に結び付けるための儀式を行ったのです。

 

現在の私たちは、この時間に関連した円の観念を失っています。私たちのとって時間はデジタル化しており、ただジリジリと過ぎていくばかりです。デジタル時間から得られるのは時間の流れという感じだけです。

 

ニューヨークのペン・ステーションには、時間、分、秒、10分の1秒、100分の1秒、まで表示される時計があります。100分の1秒ずつがチリチリチリチリ過ぎていくのを見ていると、時間が自分のなかをどんどん過ぎていくという感覚に捕らわれる。

 

ところが、円環は全体性を表しています。

円のなかのすべてはひとつのものであり、それが囲まれ、縁取られている。それが空間的な相です。円の時間的な相は、あなたが出かけてどこかへ行ったとしても必ず戻ってくるという特徴を持ってます。

 

神はアルファでありオメガでもある。発端であり終着点でもある。円は時間内であろうと、ただちに完成された全体性を示唆しています。

 

モイヤーズ 始めもなく終わりもない。

 

キャンベル ぐるぐる、ぐるぐる回る。例えば1年です。11月がめぐってくると、また感謝祭がやってきます。そして12月になると、またクリスマス。12月がめぐるだけでなく、月の満ち欠けのサイクル、1日の繰り返される。

私たちは腕時計を見て、時の回転を見るたびに、このことを重い起こします。同じ時間が来るのですが、日は違う。

 

モイヤーズ 中国はおのれを中心の王国「中華」と呼んでいました。そしてアステカ人も自分たちの文化について同じような名前をつけていました。

円環を宇宙的秩序の象徴として用いている文化社会はすべて、自己をその中心として見なしています。円環がこれほど全世界的な象徴になったのはなぜでしょう。

 

キャンベル それは常に経験されているからです。1日、1年、自宅からなにか冒険に出かけ-----狩猟でもなんでもいいのですが、-----また家に帰ること。それにもっと深い経験がありますね、子宮の、また墓の神秘。人々が埋葬される、それは再生のためです。それが埋葬という理念の根源です。

 

私たちはだれかを、再生が可能になるようにと母なる大地の胎内に戻してあげる。非常に初期の女神のイメージは魂をまた迎え入れる母親のそれなのです。